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姜 尚中
NHK出版
¥ 1,080
(2014-05-22)
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高等遊民のような一般的にはとても「先生」と呼びがたい人びとに、漱石が「先 生」の呼び名を与えたのは、彼自身が生きた明治の時代がリーダー不在の時代で、理想なき若者が増えていくなか、新しい手本として登場させたという論は面白かったです。教師や政治家にではなく、自分が「この人だ」と見込んだ人がすなわち「先生」であるという、「名よりも、実を求める」漱石の気持ちの表れによるものだという説は頷けます。
漱石作品とその時代をリンクさせた年表や、先生の年表などがあるのもありがたい。
「先生」と呼ばれることの多かった漱石自身、教師としては大変熱心で、若い人を育て導く漱石の一面も再確認することができました。だからこそあれだけ多くの弟子もいたのでしょう。上からではなく、自分の持っているものを分け与えるというスタンスの漱石は、当時の教壇では大変ユニークに学生のに写ったのかもしれませ ん。
Kの自殺の原因が孤独というのは小説を読めば察することができることで、著者特有の論ではない気がします。
「私」がKに言ったこと、仕出かしたことがどれ程Kを傷つけたか、孤独を際立たせたか。Kには帰るべき家がなく、すがる友もいない。信じてきた道は恋によって奪われ、進退極まる・・・からの、死。煩悶死。
孤独で寂しいから、ではなく、本当に行き詰まったんだろうな、というのは読んで伝わってきます。そのことに当時の若かりし「私」は気づかず、恋の裏切りによって親友を死なせたと誤解する・・・これもKの真実を理解しないという点で、Kを二回殺してますよね。
恋に我を失った男同士の悲劇。
他に、Kと「私」のやりとりがエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルスン』に着想を得ているのでは、という説は面白かったです。Kが善良をにない、私が悪をになう。一心同体の彼らは、片割れが死ねば、その片割れも死んでいくしかないという設定は、是非とも読んでみたいし、確かに私とKにも当てはまるような気がします。
お嬢さんに対しての言及も面白く、先生がなぜ妻には何も話さずに死んでいくのかについては、「自分達を狂わせた張本人に、真実は教えてやらない」という理由に背筋が寒くなりました。
私とKは同郷の幼馴染みで、私が部屋を分けて住まわせてやるくらいの仲です。その仲に突如現れたお嬢さんという存在は、罪悪でもあり、神聖な存在でもあったでしょう。彼らの仲を永遠に引き裂くだけの魔力をもっていたのです。
誰も幸せにならない小説だ、と著者は指摘していますが、まさにその通り。
先生の余生は、「態度価値」だという指摘は、造詣深すぎて脱帽です。そんな言葉があるんですね。彼の生き方を読めば、彼の主張したいことは何となくわかるけど、それを明確な言葉と名前にしている精神科医が既にいました・・・。漱石くらいを読みこなそうと思えば、様々な知識がいるんだなぁ。
この主要三人のこころを想像すると、現代人の抱える思いや悩みは、ここに帰結すると思うのです。
そんな小説を書いた漱石は、あの時代に生きながら、現代人より現代人らしかったのかもしれません。
なのに、Kも「私」も死んでしまうこんな小説を書いた漱石は、『生』の肯定者だと著者は訴えるのです。その根拠となっている『硝子戸の中』は是非読まねばなりませんね。
先生の遺書を託された「私」は看取り人であり、先生から信頼された唯一の人であり、死ぬ機会を与えたという人でもあります。Kと先生の生の歴史を受け取っ た私は、次は誰に引き継ぐのか。
一見人が死んでばかりの小説ですが、その歴史を繋いでいくという視点で見れば、これは生の小説でもあるという著者の読み は、納得させられる部分が多く、まだまだもやもやは残るものの、一つの『こころ』の読みとしてはアリだなと思いました。
面白かったです。